Scott Drake Acc-Cobra-EMB クラシックシェルビーコブラエンブレム


シェルビーは1964年に発売となったフォード「マスタング」のチューニングも手掛けた。フォードがハイパフォーマンスモデルの開発をシェルビーに委ねたのだ。そんな関係もあって、コブラやシェルビーが手掛けたマスタングGT500というネーミングがマッスルカーのブランドイメージとして定着し、フォードのイメージリーダーともなっていったのだ。


フロント・リアメダリオンと共に、ステアリングにもコブラエンブレムを付けることにより、トータル的にバランスが取れます。 ..

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ちなみに車名の由来だが、キャロル・シェルビーが以前から、自分が開発したクルマに「コブラ」と名付けることを夢見ていたからだと伝えられている。

「AC コブラ」のアイデア 22 件 | acコブラ, コブラ 車, マッスルカー

「COBRA(コブラ)」の名前を自身の開発したクルマに付けるのはキャロル・シェルビーの夢だった。レーシングドライバーであったキャロル・シェルビーが心臓に問題が見つかり、若くして引退したあと、欧州調のアメリカ製高性能スポーツカーを造ろうと決心し、調査研究した結果白羽の矢を立てたのが英国のACエースの車体にアメリカ製V8エンジンを移植することであった。最初はシボレーのスモールブロックV8を手に入れるべくGMと交渉したが失敗。次にフォードと交渉したところ、当時、フォードの副社長でフォード部門の総支配人であったリー・アイアコッカが、若年層の顧客を増やすべくフォードの若返りを図り「Total Performance」政策を推進している時期であり、絶好のタイミングで協力を得ることに成功した。エンジンの供給はもとより、車両開発のサポート、代金決済期間の延長、フォードのディーラーネットワークの活用などシェルビーはフォードの全面的なサポートを受けることとなった。そして、クルマの正式名称は「Shelby-AC Cobra powered by Ford」に決定した。

1965年2月に開催されたデイトナ・コンチネンタル2000kmレースのプログラム。No.14はハル・ケック(Hal Keck)とジョー・シュレッサー(Jo Schlesser)のドライブで総合2位、GTカテゴリーで優勝したCobra Coupe。このレースでは、1965年シーズンからシェルビー・アメリカンに託されたフォードGT40が初めて総合優勝している。
Cobra Coupeは打倒フェラーリ250GTOを目指して、1963年10月に開発をスタート、デザイナーのピート・ブロック(Pete Brock)を中心に、1964年2月のデイトナ・コンチネンタル2000kmレースに間に合わせるべく、信じられないような短期間で開発され、計画どおり1964年のデイトナにデビュー、十分なリードを保っていたが、ピット作業中に火災事故が発生リタイアしてしまった。このレースでは1~3位を独占したフェラーリ250GTOに続いてダン・ガーニー(Dan Gurney)/ボブ・ジョンソン(Bob Johnson)組のCobra ロードスターが7気筒になりながらも4位でフィニッシュしている。初戦のデイトナにちなみCobra Daytona Coupeと呼ばれ、合計6台製作された。最初の1台はシェルビーで組み立てたが、残り5台のボディー架装はイタリアのカロッツェリア グランスポルト(Carrozzeria Gransport)で実施されている。

ACコブラ。いわば米英合作のモデルとなります。 (AC・コブラのエンブレム)

”Sociableという3輪車を発売。シート後方にカーゴボックスを備えたモデルであった。会社は当時Auto Carriers Ltdという社名になっており、このSociableに初めてACのエンブレムが付くことになったのである。1913年になると初の4輪車10hpを発表。しかし残念なことに第1次大戦の勃発で、この車は数台しか作られなかった。



第一次大戦後、社名をAC Cars Ltd と改名。しかしその後会社が衰退し、売却されたことでAC不遇の時代が訪れる。第二次大戦後、ACが存続するきっかけとなったのは政府が発注した障害者向けのマイクロカーの生産で、Invacarと呼ばれたそれは1976年まで生産が続いた。そして1953年、レーシングカーデザイナーとして名を馳せたジョン・トジェイロが設計した軽量シャシーにアルミボディを載せたオープン2-シーターのAceが誕生する。その後現在に至るまでAceを除けばいずれも成功したモデルは誕生しておらず、ACは今もAceをベーストしてキャロル・シェルビーが作り上げたコブラの生産を続けている。



さて、そのAC Aceであるが、誕生した1953年には古い2リッターの直6エンジンを搭載していたが、そのパワーはプロトタイプに搭載されたものが85bhpで流石にスポーツカーと呼ぶにはアンダーパワーであった。しかもこのエンジンが誕生したのは1920年代のことだから古さも否めない。そこで、そのアンダーパワーをカバーすべく採用されたのがブリストルの2リッターユニットであった。パワーは一気に120bhpに跳ね上がった。



これより少し前1954年にはクーペボディを持つAC Acecaがデビューする。これによってオープン2シーターのAC AceとクーペボディのAcecaというラインナップが完成するのだが、1958年にAceを購入したスイスのディーラー経営者、Hubert Pattheyは、エリオ・ザガートにこの車のボディ架装を依頼。こうして完成したのがAC ブリストル・ザガートであった。オリジナルのモデルはもちろんオープン2シーターで、完成時にはイギリスのMMP323Lという登録ナンバーをつけており、そのままスイスにデリバリーされたようである。





その後車はスイス在住だったJohn Gretenerに売却された。彼自身この車でスイスのラリーなどに参戦していたが、その後彼はこの車をジョー・シファートに売却。彼の手によっていくつかのイベントに出場後、ロッソビアンコ博物館のピーター・カウスの元にやってきた。ザガートが完成させたボディは完成当初ボディサイドのモールディングがリアエンドまで伸びていたが、今はドアの部分で途切れている。シャシーナンバーはBEX477。現在この車はアメリカ、オレゴン州ポートランドに住むACコレクターであるジム・フェルドマンの元にあるようだ。


文:中村孝仁 写真:T.

1960年代、フロントのエンブレムにコブラを配した「ACコブラ」というクルマが存在した。イギリスのACという自動車メーカーとアメリカのキャロル・シェルビーという人物が作り上げたマッスルカーで、もっとも有名なフォード製7リッターV型8気筒エンジンを搭載した「コブラ427」は、あまりのパワーから3速でもホイールスピンするほどのパワフルさを見せつけ、伝説的な存在となった。生産台数はおよそ350台から400台と伝えられる。他の排気量やエンジンチューンした仕様を加えると、ACコブラは全部で1,002台が作られたようだ。

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上の2点はフォードが発行する顧客用の情報誌「Ford Times」1965年8月号に掲載された「Cobra 427」の記事。コブラの登場によって、素晴らしいスポーツカーはヨーロッパからやってくる、というスポーツカーファンたちの概念を打ち破った。そして、U.S.ロードレーシング・チャンピオンシップも過去2年獲得したし、GTカーのワールドチャンピオンシップも、前年はフェラーリを破る射程距離内に迫った。Cobra 427の登場によってワールドチャンピオンも夢ではなくなる。との思惑どおり1965年にはGTカーのワールド・マニュファクチャラー・チャンピオンとなっている。

『東京騎士団』(1985年)の主人公・鷹野の普段の愛車はジャガーXJ12(大沢作品の車 5で紹介)でしたが、もう1台復刻版のコブラを所有していました。