0053富士 [II](→戦艦→一等海防艦→運送艦→練習特務艦)


日本では13世紀に大元王朝時代の中国と朝鮮半島の高麗王国連合軍による『元寇』を暴風雨『神風』で撃退して以来、国難の折には凄まじい嵐が敵を壊滅させるという伝説があり、第2次世界大戦時の『神風特別攻撃隊』もこの故事に倣ったのが命名理由の1つでした。しかし、特攻機による神風以外にも、『神風』レベルの台風が2度にわたって米艦隊を襲ったのです。


この一連の状況から、「コブラ台風」は「ハルゼー台風」とも呼ばれています。

1 黎明期
1.1 軍艦
1.2 運輸船
1.3 その他
2 艦艇
2.1 軍艦
2.1.1 戦艦
2.1.1.1 一等戦艦
2.1.1.2 二等戦艦
2.1.1.3 等級廃止後
2.1.2 巡洋戦艦
☆今回☆2.1.3 航空母艦
2.1.4 巡洋艦
2.1.4.1 等級制定以前(スループ)
2.1.4.2 等級制定以前(コルベット)
2.1.4.3 等級制定以前(巡洋艦)
2.1.4.4 等級制定以前(戦利巡洋艦)
2.1.4.5 等級制定以前(装甲巡洋艦)
2.1.4.6 等級制定以前(防護巡洋艦)
2.1.4.7 一等巡洋艦(装甲巡洋艦)
2.1.4.8 一等巡洋艦(重巡洋艦)
2.1.4.9 二等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.4.10 二等巡洋艦(軽巡洋艦)
2.1.4.11 三等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.5 水上機母艦
2.1.6 水雷母艦
2.1.7 潜水母艦
2.1.8 水雷砲艦
2.1.9 通報艦
2.1.10 敷設艦
2.1.10.1 急設網艦
2.1.11 練習戦艦
2.1.12 練習巡洋艦
2.2 駆逐艦
2.2.1 等級制定以前
2.2.2 一等駆逐艦
2.2.3 二等駆逐艦
2.3 潜水艦
2.3.1 一等潜水艦
2.3.1.1 海大型潜水艦
2.3.1.2 巡潜型潜水艦
2.3.1.3 その他の一等潜水艦
2.3.2 二等潜水艦
2.3.3 三等潜水艦
2.3.4 第一次世界大戦戦利潜水艦
2.3.5 特殊潜航艇・特攻兵器
2.3.6 実験艦・計画艦
2.4 砲艦
2.4.1 河用砲艦
2.5 海防艦
2.5.1 旧定義艦
2.5.1.1 一等海防艦
2.5.1.2 二等海防艦
2.5.1.3 三等海防艦
2.5.1.4 等級廃止後
2.5.2 新定義艦
2.6 輸送艦
2.6.1 一等輸送艦
2.6.2 二等輸送艦
2.7 水雷艇
2.7.1 一等水雷艇
2.7.2 二等水雷艇
2.7.3 三等水雷艇
2.7.4 日清戦争戦利艇
2.7.5 昭和期の水雷艇
2.8 掃海艇
2.9 駆潜艇
2.10 敷設艇
2.10.1 二等敷設艇
2.10.2 三等敷設艇
2.11 哨戒艇
3 特務艦艇
3.1 特務艦
3.1.1 工作艦
3.1.2 運送艦
3.1.2.1 給油艦
3.1.2.2 給炭艦
3.1.2.3 給炭油艦
3.1.2.4 給兵艦
3.1.2.5 給糧艦
3.1.3 砕氷艦
3.1.4 測量艦
3.1.5 標的艦
3.1.6 練習特務艦
3.2 特務艇
3.2.1 掃海特務艇
3.2.2 駆潜特務艇
3.2.3 敷設特務艇
3.2.4 哨戒特務艇
3.2.5 海防艇
3.2.6 電纜敷設艇
3.2.7 潜水艦母艇
3.2.8 魚雷艇
3.2.8.1 試作魚雷艇
3.2.8.2 輸入魚雷艇
3.2.8.3 T-1型
3.2.8.4 甲型魚雷艇
3.2.8.5 乙型魚雷艇
3.2.8.6 隼艇
3.2.8.7 太平洋戦争戦利魚雷艇
4 特設艦艇
4.1 特設軍艦
4.1.1 特設航空母艦
4.1.2 特設水上機母艦
4.1.3 特設航空機運搬艦
4.1.4 特設巡洋艦
4.1.5 特設敷設艦
4.1.6 特設急設網艦
4.1.7 特設潜水母艦
4.1.8 特設水雷母艦
4.1.9 特設掃海母艦
4.1.10 特設砲艦
4.1.10.1 砲艦兼砕氷艦
4.1.10.2 砲艦大
4.1.10.3 砲艦小
4.1.10.4 砲艦兼敷設艦
4.2 特設特務艇
4.2.1 特設捕獲網艇
4.2.2 特設防潜網艇
4.2.3 特設敷設艇
4.2.4 特設駆潜艇
4.2.5 特設掃海艇
4.2.6 特設監視艇
4.2.7 特設工作艦
4.2.8 特設港務艦
4.2.9 特設測量艦
4.2.10 特設電纜敷設船
4.2.11 特設病院船
4.2.12 特設救難船
4.2.13 特設運送艦船
4.2.13.1 給兵船
4.2.13.2 給水船
4.2.13.3 給糧船
4.2.13.4 給炭船
4.2.13.5 給炭油船
4.2.13.6 給油船
4.2.13.7 雑用船
5 雑役船
5.1 工作船
5.2 海洋観測船
5.3 交通船
5.4 救難船兼曳船」

これに対し、日本軍は最後の手段として航空攻撃の成功率を少しでも高めるべく、命中するまで爆弾を積んだ戦闘機や爆撃機をアメリカ軍艦艇へ突入させる非情の特攻作戦を開始、『神風特別攻撃隊』と名づけます。
その由来は、命名者の第一航空艦隊首席参謀・猪口力平の郷里の道場『神風(しんぷう)流』と、海軍第201航空隊の玉井副長による『(元寇のような)神風を吹かせねば』双方と言われていますが、もちろん元寇と神風とは海上の嵐、大規模なものなら台風です。

0120大鳳0121海鷹(←あるぜんちな丸)0122神鷹(←シャルンホルスト)

この「コブラ台風」は一時中心気圧が907mbarにまで発展して「猛烈な台風」となり、ハルゼー大将の第38任務部隊に対して、次に示す大きな被害をもたらしました。

二度の元寇で神風が吹き荒れ元軍を退散させた古事にちなんで
太平洋戦争末期、日本軍もT(タイフーン)攻撃部隊、神風攻撃隊等を
送りだしたが実は日本軍に味方した「神風」が一度ならず二度も吹き荒れたのである。

一度目の神風は1944年12月18日のフィリピン東方沖で米側呼称でコブラ台風と呼ばれる。
当時はレイテ島決戦の最中である。
当日ハルゼー提督の指揮する高速空母機動部隊は強力なコブラ台風に遭遇し2000トン級
の駆逐艦ハル、モナガン、スペンスの3隻が沈没、他に空母を含む18隻が大、中破、9隻が
損傷を受け艦上機108機が失われた。
将兵は約800名が死亡か行方不明。
駆逐艦3隻の転覆は、台風と空の燃料タンク(重心上昇)という悪条件が重なった結果である。


二度目の神風は1945年6月4日沖縄戦の真最中、米側呼称バイパー台風。
ハルゼー大将は沖縄水域への神風特攻の根を断ち切るため九州攻撃を計画し、
これにより高速空母機動部隊が北上して6月2-3日に九州南部の飛行場を攻撃したが、
予期したほどの成果を挙げられなかった。
その直後の4-5日に沖縄、九州水域に強力なバイパー台風が来襲し、作戦中の、
高速空母機動部隊はその位置と針路の関係から甚大な被害を受けた。

この時も沖縄決戦の最中だった。
この台風により米艦隊は、戦艦4隻、航空母艦2隻、軽航空母艦2隻、護衛航空母艦4隻、
重巡洋艦3隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦以下17隻の合計36隻の艦艇が相当な被害を被り、
艦上機142機が破壊される打撃を受けた。
(残念ながら人的被害は不明)
ハルゼー提督は勇猛果敢な人物だが台風を甘く見ていたようだ。
(事実、台風を利用した奇襲が得意の提督ではあったが、、、)

米海軍は日本への侵攻を企図しながら、艦艇の計画建造において、
強力な台風との遭遇は考慮されていなかったのではなかろうか。

実は日本にも戦前、台風で駆逐艦の艦首が切断される事件(第4艦隊事件)
が起こり軍艦の速力や武装を犠牲にした強度対策は施されていた。

アメリカでもこの台風被害事件は大問題となりハルゼー提督と次席指揮官マッケーン中将の
責任問題まで発展しマッケーン提督は1945年9月、太平洋戦争終結後わずか1ヶ月
で急死している。
この二度の台風被害を合わせると1943年(昭和18年)以降の米海軍が戦った海戦では
マリアナ沖海戦を超えレイテ島沖海戦の被害と並ぶ程の損害と思われる。

戦後アメリカで「ケイン号の反乱」という傑作映画がつくられたがこの台風事件
がヒントと思わせる。

雲龍(うんりゅう/うんりう)は、大日本帝国海軍の航空母艦 ..

1944年12月に『コブラ台風』へ出くわした第38任務部隊の総指揮官(第3艦隊司令長官)、ウィリアム・ハルゼーJr大将もアメリカ海軍の指揮官の常として、どうやら『神風』を侮っていたようです。


兵装
竣工時
40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃 13基 または21基
同単装機銃 24挺(橇式)
12cm28連装噴進砲(後日装備) 4基、または6基
九五式爆雷6個(計画)
装甲 計画
弾薬庫舷側:140-50mmNVNC鋼
同甲板:56mmCNC1鋼
機関室(軽質油タンク)舷側:46mmCNC1鋼
同甲板:25mmCNC2鋼
搭載艇 計画 12m内火艇3隻、12m内火ランチ2隻、8m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船2隻
搭載機 雲龍型航空母艦#搭載機を参照
レーダー 21号電探1基
ソナー 計画 仮称九一式四号探信儀1組
その他 カタパルト(後日装備、計画)

雲龍 (空母) 概要 雲龍(うんりゅう)は[1]、日本海軍がマル急計画に基づき横須賀海軍工廠で建造した航空母艦[26]。1944年( ..

1944年12月14日にフィリピン東方で発生が確認された『コブラ台風』は西北西へ進路を取り、やがて北西へ進路を変えて第38任務部隊へ迫りました。
これはアメリカ軍による観測結果なので艦隊でも台風の存在は認識しており、特に対空火器の増設で艦の規模に対し重心が高くなりすぎていたファラガット級など戦前建造の旧式駆逐艦は危険だとして、重心を下げるため早めの燃料補給が命じられています。

【雲龍型】

「雲龍」は本来であれば新設計のところだが、戦時の急造を考慮して「」の図面を流用し、艦橋の位置を右舷前部に改めて大型化したものとされた。
一見すると「蒼龍」のようにも見えるが、船体の構造からあくまでも「飛龍」の改型である。
ミッドウェー作戦で4隻の正規空母を失ったことで、一転して空母の緊急増勢に力が注がれ、「雲龍」型空母15隻と「大鳳」改型5隻が計画された。
しかし、実際に建造が始まったのは「雲龍」型の6隻だけで、しかも完成したのは「雲龍」「天城」「葛城」の3隻。
続く「笠置」は艤装工事中で建造中止。
「阿蘇」と「生駒」は船体が完成して進水した状態で工事中止となった。

【要目】(雲龍・昭和19年)
公試排水量:2万400トン
機関出力:15万2000馬力
速力:34ノット
航続力:18ノットで8000海里
乗員数:1101名
兵装:12.7cm連装高角砲×6
25mm連装機銃×13
搭載機数:57機(補用8機)

【同型艦】
雲龍(昭和19年8月6日竣工~昭和19年12月19日戦没)
天城(昭和19年8月10日竣工~終戦時残存・解体)
葛城(昭和19年10月15日竣工~終戦時残存・復員輸送に使用後解体


雲龍型の空母は他に 笠置 阿蘇 生駒 の3隻が建造中でしたが、12 ..

航空母艦雲龍戦没者慰霊碑

雲龍型空母のネームシップ。
昭和19年8月6日横須賀工廠で竣工。
昭和18年9月25日付で佐世保を本籍と定めた。

雲龍型空母は15隻計画されたが、結局竣工したのは雲龍、天城、葛城の3隻。
雲龍は竣工したものの配乗予定の搭載機を、折から発令された捷1号作戦に持って行かれ、折角の正規空母も積むべき航空機も熟練パイロットも乗せる機会を失った。
昭和19年12月、マニラ方面にの緊急輸送の任務を課せられる。
17日、駆逐艦「時雨」「檜」「樅」の護衛のもと呉を出港。
本艦には海軍航空部隊や陸軍部隊も便乗。
雲龍は対潜警戒のため水深の浅い中国大陸沿いを航路に策定。
12月17日夜半は関門海峡沖に潮待ちのため仮泊。
18日早朝抜錨し通峡、東シナ海へ向かうが、翌日から米潜水艦の追摂を受ける。
19日昼頃、舟山列島東側にさしかかる。
視界が段々不良になった午後4時35分、右30度に雷跡。
艦首が約10度右に回頭して回避を図った時に右舷艦橋下に魚雷1本が命中。
攻撃したのは米潜水艦「レッドフィッシュ」。
この被雷により機械は停止。
7分後、右舷前部に更に魚雷1本が命中。
その4分後に火薬庫が誘爆して火災浸水、艦は前部を沈下した。
艦長の総員退去下令の9分後、午後4時57分、艦尾を上にして東シナ海に姿を没した。
生存者は僅かに142名。
雲龍の寿命は竣工以来僅か4ヶ月であり、竣工沈没するまでの間、一度も母港の佐世保に入港したことはなかった。
碑は昭和62年12月19日に建立。
艦長小西要人少将以下乗組員1,240名、便乗の第634海軍航空隊、陸軍滑空歩兵連隊、並びに他の便乗者を合わせて約3,000名の霊を祀ってある。

台風を侮ったハルゼーの第38任務部隊が出くわした『コブラ台風』

建造所 横須賀海軍工廠
運用者 大日本帝国海軍
艦種 航空母艦
級名 雲龍型
建造費 当初予算 87,039,000円
母港 佐世保
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年8月1日
進水 1943年9月25日
竣工 1944年8月6日
最期 1944年12月19日
除籍 1945年2月20日
要目(竣工時)
基準排水量 計画 17,150トン
17,480英トン
公試排水量 計画 20,100トン
20,400トン または 20,450トン
満載排水量 計画 21,779トン
全長 227.35m
水線長 223.00
垂線間長 206.52m
水線幅 22.00m
深さ 20.50m(飛行甲板まで)
飛行甲板 216.90m x 27.00m
エレベーター2基
吃水 計画公試平均 7.76m
ボイラー ロ号艦本式専焼缶(空気余熱器付)8基
主機 艦本式タービン(高中低圧)4基
推進 4軸 x 340rpm、直径3.800m
出力 公試全力 152,733shp
終末公試 153,000shp
速力 公試全力 34.28ノット
終末公試 34.59ノット
燃料 重油 3,750トン
航続距離 8,000カイリ / 18ノット
乗員 1,556名
定員 1,561名
搭載能力 計画
九一式魚雷36本
爆弾 800kg72個、250kg288個、60kg456個
飛行機用軽質油 360トン

ミッドウェー海戦の敗北から、足りない空母戦力を補う必要性が生じた帝國海軍は、雲龍 ..

碑文

航空母艦雲龍(174,840噸)は太平洋戦争愈々苛烈を極める中、昭和19年8月6日横須賀海軍工廠にて竣工し海軍機動部隊の主力である第一航空戦隊に編入された。
竣工するや否や海軍少将小西要人艦長のもと千5百余名の乗員一致団結祖国と民族の為身を鴻毛の軽きにおき日夜ひたすらに出撃に向けての訓練に励み昭和19年12月17日マニラ方面緊急輸送作戦に呉軍港を出撃東支那海大陸沿岸を一路激戦地のマニラに向かった。
12月19日1637時及び1651時敵潜水艦の雷撃を受け勇戦空しく海底深く沈んだ。
小西艦長はじめ乗組員将兵、便乗中の将兵、陸軍滑空歩兵第1連隊将兵、比島方面へ赴任中の海軍将兵を含み3千名の多数が艦と運命を共にされ生存者は僅に142名であった。
童顔の15歳の少年兵も 学徒出陣の少尉もいた。
父、母に、兄弟姉妹に、最愛の妻や子にも別れを告げることもなく嵐の海にのまれてしまった。
あれから43年、今日のこの平和な繁栄は英霊の方々の尊き犠牲により築かれた。
このたびやっと遺族、生存者相つどい御魂らを慰め再び戦争の悲劇を繰り返さないことを希ってここ佐世保の海軍墓地に慰霊の碑を建立する。

御霊よ 安らかに 鎮まり給え 合掌

昭和62年12月19日
航空母艦雲龍戦没者慰霊碑建設委員長 森野 廣
元 雲龍航海士

「雲龍」で犠牲 遺族高齢化 第634海軍航空隊基地隊 最後の慰霊

0123信濃(←戦艦)
0124伊吹 [II](←重巡洋艦、未成)
〇雲龍型

航空母艦雲龍戦没者慰霊碑 (長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地) (平成20年11月23日)

「コブラ台風」の直撃を受けたハルゼーの艦隊では、駆逐艦3隻が沈没、航空母艦3隻・衛航空母艦2隻などが大きな被害を受けています。

Diamana PD 50 S シャフトのみ Fw用 フェアウェイウッド用 COBRA ディアマナ コブラスリーブ付 ..

このコブラ台風で第38任務部隊がこうむった損害は駆逐艦3隻沈没、軽空母4隻、護衛空母4隻、軽巡洋艦1席、駆逐艦10隻、支援艦艇3隻が損傷を被り、多数の艦載機を失ったほどで、戦艦や空母など主力艦こそ大きな損害を受けなかったものの、『1度にこうむった損害としては第1次ソロモン海戦以来』とすら言われます。

ワールド・オブ・ウォーシップ/アメリカテクツリー/プレミアム船舶

ところが、予測に反して「コブラ台風」は北西に進路を取ったままで、発達しながら第38任務部隊が補給を予定していたフィリピン東方沖に進み、ハルゼーの艦隊は台風に直撃されることになります。

台風ライブ完全版が見れるのは舞台だけ!ここ最近リピってる(死語)曲だけにあり ..

この台風は「コブラ台風」と呼ばれ、昭和19年12月14日にミクロネシア付近で発生し、西に進みフィリピンに近付きます。

台風 1.68 80.32 名詞児童館 1.68 80.32 名詞桂三枝 1.68 80.32 名詞東京支局 ..

なお同じ頃、第7次多号作戦の『オルモック夜戦』で生き残りながらも片舷航行となり、本土へ修理のため回航途上だった日本海軍の駆逐艦『』もコブラ台風に遭遇していますが、波浪対策で優れた日本艦であったこともあり、損害もなく無事通過しました。