COBRA バンドスコア 3冊セット コブラ ヨースコー ラフィン PON - アート・デザイン・音楽.
COBRA(コブラ)と言えばメジャーヒットしたアルバム「Oi Oi Oi」や「CAPTAIN NIPPON」が有名ですが、インディーズ時代の音源から特に「Oi TONIGHT」、TOKIO RIOTの原曲「NO MONEY」、oioioiの原曲「1984」などは必聴。
COBRAコブラTシャツ OI PUNK オイパンク ニョロ吉 ヨースコーPONナオキ80s90s
1999年
YOSU-KO(B,Vo)、NAOKI(G)、YOSHIRO(Dr)(元SOY SAUCE SONIX)3人でCOBRAとしての活動を再開。
アルバム「O.K. Ride On」でメジャー復帰(EMI)
1992-1994年
PON(B)とYOSU-KO(Vo)はテクノパンクユニットCOWCOWを結成
1995年~現在
PON(B)はCHARMYとともにLAUGHIN’NOSE活動再開
1992-1997年
NAOKI(G)とKI-YAN(Dr)は現WDRSのTAISHO(Vo)、現SAのKEN(B)とDOG FIGHT (ドッグファイト)結成
COBRA バンドスコア 3冊セット コブラ ヨースコー ラフィン PONのサムネイル ..
1982年
中学時代の同級生だったYOSU-KO(Vo&B)とNAOKI(G&cho)を中心に結成された。
2人は兵庫県尼崎市出身。
1980年代半ばにインディーズブームを牽引し、メジャー移籍後はどんどん大きくなるフィールドで、思うままに楽しんでいるかのように見えたチャーミーだが、自分たちバンドメンバー以外の思惑がいろいろ入ってくる状況に、混乱することも多かったようだ。
再び動きはじめたラフィンノーズは、ポンが主宰する新たなレーベル「Letsrock」をベースに、ライブのブッキングからチケットやグッズの販売、CDジャケットやグッズのデザイン、ライブをする地方への移動や機材の搬入搬出などまで、すべての活動をほぼメンバーのみでおこなうという、純・インディーズ体制を築いた。
それはまるで、チャーミーとポンが大阪で出会ったばかりの頃に戻り、それを心から慈しみ、楽しんでいるかのような動きだった。
音楽性だけではなく、そうしたバンド活動にまつわる諸事の扱いも含め、新生ラフィンノーズがパンクのDIY精神を貫こうとしていたことは明らかだ。
「ポンと初めて会ったのは、19か20のときだから、もう40年以上の長い付き合いになります。それだけ長く付き合うと良い面も嫌な面も目につくけど、俺とポンって同じ方を見て同じ道を進んではいても、言うなれば“背中合わせ”の2人なんですよ。『こっちは俺が守るぜ。だから俺の後ろは、ポン、おまえが守ってくれ』みたいな。なんかそんな感じ。あいつと出会ったのは運命だと思ってるし、普通に『兄弟だな』って思う。気づけばそうなってますね。昔はそんなこと恥ずかしくて言わなかったけど、今はもう、本当にそうなんだなと思うよ」
TOKIO RIOT COBRA コブラ LAUGHIN NOSE ヨースコー PON
僕がその存在を知って虜になった1985年頃のラフィンノーズは、チャーミー(ヴォーカル)、ナオキ(ギター)、ポン(ベース)、マル(ドラムス)という体制だった。
このうち、結成時からのオリジナルメンバーはチャーミーだけだが、結成まもない1982年から参加しているベースのポンは、チャーミーとともにラフィンノーズを形作ってきた主要メンバー。チャーミーにとってはかけがえのない大事な仲間で、無二の友人であることは、ファンの目から見ても明らかだ。
だから、1989年にナオキとともにポンが脱退したときは、「ああ、これでラフィンは終わりか」と思った。その後チャーミーは新メンバーを迎えてラフィンノーズを継続させたが、1990年にはメンバーの1人が暴行事件で逮捕され、マルも脱退。
1991年にはついに解散してしまう。
ポンはラフィンノーズ脱退後、ナオキとともに関西パンクシーン出身のOi!パンクバンドCOBRAに加わり、メジャー展開して人気が高まっていた同バンドのメンバーとして、武道館のステージに立つ。
COBRAは1992年に解散したが、その後もポンは、COBRAのボーカリストYOSU-KOとともにCOW COWというハウスユニットを組むなど、充実したミュージシャンライフを送っていた。
一方のチャーミーはラフィン解散後すぐにソロアルバムをリリースしたが、音楽活動は以前より目立たなくなり、このまま表舞台から去ってしまうかのように見えた。
だが1995年、チャーミーとポンは再び意気投合し、ラフィンノーズの再始動を決意する。かつてのインタビューでチャーミーは、ラフィンノーズ再結成にあたり、「何をやってもいいんだけど、絶対にパンクロックでありたい」という意識を強く持ったと語っている。
元「smart」編集長・佐藤誠二朗によるカルチャー・ノンフィクション連載「Don't trust under 50」。ラフィンノーズのヴォーカル、チャーミーの物語。前回は、62歳を過ぎても年齢を全く感じさせない熱いライブで全国を回り続ける、現在の生活についてお伝えした。今回は、チャーミーを語るために欠かすことのできない存在である2人の大切な男について(全4回の2回目)。
こうぽん様専用 値下げ!コブラ ltdx ls 14.5度 フェアウェイウッド ゴルフ
あまり良い思い出のない産みの母はすでに亡くなったが、深く感謝している父と育ての母はいまだ健在で、気仙沼で暮らしているという。
そんな両親に、自分たちのバンドのライブを見てもらったことがあるかと尋ねると、チャーミーの返答はそっけなかった。
1981年、チャーミーを中心に結成。やがてポン加入後にバンドが加速し、「インディーズの騎手」として、後のバンドブームを牽引。途中、活動を停止していた時期もあったが、1995年より現在まで休むことなくライブ、リリースの活動をメンバーのみで運営し続けている。現メンバーはチャーミー(ボーカル)、ポン(ベース)、ベレー(ギター)、キーヤン(ドラム/from COBRA)。
1961年・宮城県気仙沼市出身。
1962年・大阪府八尾市出身。
コブラ#oi#oiパンク#ヨースコー#ポン#ナオキ#パンク#パンクロック
そういう声を聞いたら素直に嬉しいけどね。
嬉しいよね。
「ライブに行って元気をもらいました」「ライブに行って良かったです」とかね。でも、結局は自分が満足するためにやってるから。
ライブのときのチャーミーを見たらいつも命がけやねん。お、チャーミー、今日も命かけてるな、いいぞいいぞ、と。
別にそういう意識もないんだけどね、俺自身は。ただ、それくらい高めないと、自分が満足しないから。逆にさ、気合を入れて、本当に気持ちがアガったり、ハッピーだったり、ラブリーだったときのライブはお客に伝わるんだ。「明日があるから、今日のライブは手を抜こう」とかさ、そんなこと俺は一度もやったことないけど、それをしちゃったらお客は一発で帰っていくしね。実は、ここまでのツアー、レコーディングはもう俺的にはヒーっていう感じでしんどかったの。でも、だからこそ余計に見えてくるものもあったんだ。キツいのは俺だけじゃないし、泣き言は言えないし。でも、そうやってしんどい思いをしても、すごい高い山を登りつめてやっと頂上に着いたときにブワーっと見えてくる綺麗な景色っていうのがあるんだよ。だから、このアルバムが出来たとき、スタジオで聴いたときに「うわぁ……見えた」と。ホロリと涙が出ましたよ。
昔は10度の角度でしぶとくいってやれ! と思ってた時期もあったんやけど、もう50も越してるし、だからこそ今は常にラストスパート状態。だって「60になったら終わってる」と思うから。もうここまで来たら10度の角度で登っていくんじゃなくて45度でピューっといくしかないなと。最近は特に「あと、1年か2年で死ぬ」という気持ちでやってるよ。
ぽんさん専用ドラッグスターコブラシート - エキマニ・フロントパイプ.
そりゃそうやろ、パンクバンドは。続けるためにやるもんちゃうから。
でも、ラフィンノーズはまた違うの。「パンク」っていうバックグラウンドは当然あるんだけど、それ以上に「ラフィンノーズ」っていうものになってるからね。だから、いわゆるパンクのルールはラフィンノーズには当てはまらない。これはずっと昔からだけど、定石通りにはやって来てないし、むしろその定石を避けて通ってきてる。それがラフィンノーズで、それ1本なんだ。だから、職人さんのような感じなんじゃない? 職人さんって、続ければ続けるほどどんどんシンプルになり、そして太いものになっていくと思うけど、それは俺らも同じだと思う。
俺があるとき思ったのは、惰性でバンドをやるんじゃなしに、ラフィンノーズをずっとやるんだと。それは、俺にとって一生かけてやるに値する「仕事」だと。だから、パンクバンドが1年2年で終わるのは当然の話やねんけど、ラフィンノーズの場合はちゃうねんね。俺にとったら一生レベルの話。だから、このステージで死ねたら俺は本望やね。
『コブラ - COBRA -』前野曜子 【スペースコブラOP】バンドカバー
これら計3枚のCDを聴けば、当時ポンとヨースコーが時代の先の先を行き、全身全霊でこのユニットに打ち込んでいたことを感じてもらえるはずだろう。
また、本商品はミニブックレット仕様で冊子の中にCD3枚がパッケージされている仕組み。
ミニブックレットの誌面では当時の貴重なビジュアルと、ポンとヨースコーの知られざる出会い、メジャー期のコブラを突如終結させ、COW COWへ移行した経緯、活動期の秘話、解散に至った経緯の他、2人による全楽曲のセルフレビューで構成。
さらに、前述のお笑いコンビ・COWCOWの善しによるコメントも掲載し、まことしやかに伝わっていた「COW COWの名前継承」の経緯も明らかになった。
ポン(ラフィンノーズ)とヨースコー(コブラ)によって1992年から1994年まで活動したテクノハウスパンクユニット
ポン(ラフィンノーズ)とヨースコー(コブラ)によって1992年から1994年まで活動したテクノハウスパンクユニット、COW COW。そのサウンドはシーケンスの限界とアナログの暴力性を兼ね備えた過激なテクノハウスパンク。その一方、時代の移り変わりに反逆するかのような昭和の雰囲気をも漂わせるという幅広いダイナミックレンジによって、ポンとヨースコーならではの名曲の数々を残した。余談だが、「あたりまえ体操」などで知られる人気お笑いコンビ・COWCOWのコンビ名はこのユニットに由来したことでも知られる。
1994年の解散から20年。そして、数年間、音楽活動を休止していたヨースコーの復帰に合わせて全音源を復刻。計3枚のCDにまとめた。
ぽん付け可。ヒンジ付き。クロスカブ 50 110 コブラシート コレクション,シート.
手前味噌になるけど、チャーミーは「愛」を持ってて、俺は「夢」を持ってる。その愛と夢のバランスがラフィンノーズのライブなんちゃうかな。あとは、金があったら最高やねんけど。ダッハハハハハ(爆笑)。でも、たとえ金がなくても、愛と夢さえあればこんなに楽しいぞっていうのをライブの場で観せれる自信はあるね。
うん。愛のないパンクなんか、俺は必要ないから。最近のライブはすごい愛に包まれてるのを感じるのね。うちらがバーンと発信して、お客がそれを受け止めてのキャッチボールやけど、ちゃんとエクスタシーに持っていける……それがラフィンノーズのライブだね。